20 世紀前半のスイスで活躍した異才カール・ヴァルザー(1877-1943) は、
ベルン近郊のビールに生まれました。 1 歳年下の弟ローベルトは作家になり、のちにその著作にカールが挿絵を描いています。 20 代でベルリンに出たヴァルザーは、革新的な表現を目指したベルリン分離派に加わり、象徴主義的な絵画作品をいくつも残しています。 そこはかとない昏さと精妙な色彩をあわせもつその作品群は、
謎めいた神秘性を湛え、見る者を惹きつけてやみません。 |
1877 年に、スイスのベルン近郊にあるビールで生まれたカール・ヴァルザーは、シュトラスブルクの美術学校で学んだあと、1899 年からベルリンを中心に活動しました。 1902 年に、マックス・リーバーマンが会長を務めるベルリン分離派の展覧会に初出品し、翌年には会員になります。 本の装填や挿絵、舞台美術、壁画などの仕事をする一方で、この時期には象徴主義的な絵画にも取り組みました。 鮮烈でありながら、世紀末の残照とでも言うべき昏さをともなう、寓意や含意を感じさせる神秘的な作品群は、観る者を強く惹きつける力をもっています。 |
カール・ヴァルザーの名を知る人は、美術業界においても決して多くありません。 母国スイスでは、近年その再評価が始まっていますが、知名度のかなり低い画家と言っていいでしょう。 東京ステーションギャラリーでは、これまででも美術史の中で見過ごされてきたアーティストの展覧会を数多く開催してきました。 作品の価値や魅力は、その名が知られているかどうかとは関係ありません。 最初に彼の作品を見たとき、わたしたちはその鮮烈さにすっかり魅了されました。 そして多くの人とこの感動を分かち合いたいと思ったのです。 会場に足を運んでいただければ、その魅力を理解いただけるはずです。 |
会期: 2026 4/18 〔sat.〕→ 6/21 〔sun.〕 |
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プレス内覧会 日本初の回顧展「カール・ヴァルザー 世紀末の昏き残照」 |
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2026 4_17 プレス内覧会の説明会、プレスリリース、 日本初の回顧展「カール・ヴァルザー 世紀末の昏き残照」 図録よりの抜粋文章です。 |
日本滞在 1908 年、ヴァルザーはドイツの出版社に依頼されて、小説家のケラーマンとともに日本を訪れます。 ケラーマンが書く日本紀行のための挿絵を描くのが目的でした。 4 月から約半年に及ぶ滞在期間中にふたりは日本各地を巡りますが、大いに気に入って長逗留したのが宮津(京都府) です。 ヴァルザーはこの街で、芸鼓や舞妓、歌舞伎役者や市井の人々の姿を、生き生きとした筆致と美しい水彩で描きとめています。 これらの作品は、京都の風景や祭りを描いた重厚な油彩画とともに、120 年前の日本の姿を鮮やかに甦らせます。 |
目 次 / Contents |
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'2026 4_17 「日本初の回顧展「カール・ヴァルザー 世紀末の昏き残照」 報道内覧会展示風景・ギャラリートーク、プレスリリース、図録の抜粋文でご紹介しています。 |
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【 Chapter 1. 絵画と素描 Paintings and drawings 】 |
カール・ヴァルザーは、1877 年 4 月 8 日にスイス、ベルン州の都市ビールに生まれました。 1894 年から 1896 年にかけて、シュトゥッガルトのグスタフ・ケメラーの徒弟となり、装飾画を学んだ後、シュトラスブルク(現ストラスブール) の応用芸術学校で研鑽を積み、1898 年には装飾画家アドルフ・レントナーのもとで学ぶためミュンヘンに 3 カ月滞在します。 1899 年以降はベルリンで活動し、1902 年、ベルリン分離派展に初めて参加して翌年そのメンバーとなりました。 ベルリン分離派は 1899 年にマックス・リーバーマンを主導者として結成された、反アカデミックな芸術家グループで、主要メンバーはロヴィス・コリント、マックス・スレーフォークトらドイツ印象派の画家たちでした。 その展覧会にはフェルディナント・ホドラーをはじめとして外国人も参加、1902 年にはエドヴァルド・ムンクが 「生命のフリーズ」 を展示しています。 ヴァルザーは画業のかたわら、1902 年から書籍デザイナーとして、また 1904 年からは挿絵画家としての活動を開始し、出版人および美術商であるブルーノ・カッシーラー、パウル・カッシーラーと交流を深めます。 1905 年には初めて壁画にも挑戦、ザムエル・フィッシャーの豪邸のフリーズ装飾を手がけました。 カールヴァルザーの初期の画風は、概してビアズリーら同時代のユーゲント・シュティールの画家の影響下にあり、神秘的で謎めいたものが多いとはいえ、耽美主義の画家ホイッスラーの夜景画、ひいてはスイス・ロマン派の風景画を彷彿とさせるような多様性に富んでいます。 |
左・ No.1-22 《隠者》 1907 年 チューリヒ美術館(H.E. マイエンフィッシュ博士コレクション、1946 年収集) / ・No.1-14 《婦人の肖像》 1902 年 ゴットフリート・ケラー財団(新ビール美術館寄託) / ・No.1-24 《アトリエの窓からの眺め》 1908 年 新ビール美術館 / 右・No.1-27 《クアフュルステンダム通り》 1911 年 個人蔵 |
左・ No.1-22 《隠者》 着古した衣服をまとう年老いた隠者が、丘の斜面に寝そべり、中世の写本のような書物を眺めている。 背後には廃屋が建ち、塔のようなものも見える。 あたり一面に樹木や草花が生い茂る。 修業時代より戸外で自然を描いていたヴァルザーだが、ベルリン移住の頃より 「たんに自然を前に描くことに満足しまくなり、窓の鎧戸の背後にある我が夢を描き出そうとした」 と回想するように、 自然の彼方にあるものに迫り、心理状態をも映し出そうと試みる。 こうした意図から生まれたのが本作品や 《森》(cat. no. 1-6) である。 1906 年にベルリンの 「ドイツ美術の 100 年展」 で展観されたドイツ・ロマン主義の画家、カスパー・ダーヴィト・フリードリヒからの影響も見いだせよう。/・ No.1-14 《婦人の肖像》 本を読む女性は絵画史における定番のモチーフである。 この読書経験の親密さは、絵画美術において得てして室内で本を読む女性を描くことで強調されてきた。 しかしカール・ヴァルザーは 《婦人の肖像》 で、本を読む女性を屋外に配している。 それはサイズの小さな油絵(37 x 31cm) で、1902 年のベルリン分離派展でヴァルザーが初めて成功を収めた際に展示された 3 点のうちの 1 点である。 /・ No.1-24 《アトリエの窓からの眺め》 1907 年にヴァルザーは、ベルリンの都心を東西に流れるラントヴェーア運河の南岸に位置する、シェーネベルガー・ウーファー 40 番地に転居した。 翌年の 1908 年に新居のアトリエからの眺めを描いたものが本作品である。 画面前景で枝を拡げる樹々は、この頃より彼の風景画に頻出するモチーフで、見る人の視線を画中へと誘い込む。 北向きの窓から運河越しに、新興の富裕市民層の居住エリアである、ティーアガルテン地区の豪奢な街並みが見える。 この地区には新進の芸術家が集い、ヴァルザーが数多く出品したカッシーラー画廊もあった。 折しも同年にベルリン分離派の審査員に選ばれたヴァルザーの、その成功ぶりをうかがわせる 1 点でもある。/・ No.1-27 《クアフュルステンダム通り》 1910 年の結婚を機にヴァルザーは、ベルリン西部の中心にある目抜き通りで、ベルリン分離派の展覧会会場の建つクアフュルステンダム通りに転居した。 選帝侯たちが狩猟で遠出をするために、16 世紀に湿地の中につくられた道であったが、1880 年代にパリのシャンゼリゼ通りを手本に拡幅と舗装がなされ、高級住宅やカフェ、商店が立ち並ぶベルリン随一の繁華街となった。 1886 年より路面機関車が走り、その後、画中にも見られる路面電車となった。 1905 年から 1907 年にかけてヴァルザーは人気の舞台美術家として多忙をきわめたが、そこで培われた空間表現力は絵画制作にも活かされ、都会生活を賛美する風景画が多数く描かれた。 |
【 分離派 】 |
19 世紀後半から 20 世紀にかけてヨーロッパでは、美術についての前衛的な新しい動向が次々と登場した。 彼らはグループを作り、独自の展覧会を開くなどして概成の権威に対抗する。 フランスの印象派はその代表格である。 こうした動向はドイツとオーストリアでは、保守的な画壇から分かれる。 という意味で分離派(ゼツェッション) と呼ばれた。 最初に結成されたのはミュンヘン分離派で、1892 年のことである。 フランツ・フォン・シュトゥックらによって設立され、絵画、工芸の分野で自由な表現を追求した。 これに続いたのがウィーン分離派である。 1897 年に結成され、グスタフ・クリムトやエゴンシーレといった画家たちが刺激的な作品を発表し、またウィーン工房などとも協働して精力的に活動した。 ベルリン分離派は 1899 年にドイツ印象派の代表的な画家マックス・リーバーマンを中心として結成された。 ヴァルザーは 1902 年の第 2 回展に 《婦人の肖像》 などを出品し、翌 1903 年に会員となった。 |
左・No.1-1 《男性の肖像》 1894 年 ローベルト・ヴァルザー財団、ベルン / ・No.1-2 《テニソン氏の肖像》 1894 年 ロベルト・ヴァルザー財団、ベルン / ・No.1-4 《カール・モーアに扮したローベルト・ヴァルザー》 1894 年 ローベルト・ヴァルザー財団、ベルン / ・No.1-15 《アバンチュール》 1902 年 ゴットフリート・ケラー財団(新ビール美術館寄託) /
・No.1-28 《ヴストロの港》 年代不詳 スイス国立図書館 |
中・No.1-4 《カール・モーアに扮したローベルト・ヴァルザー》 当時 17 歳のカール・ヴァルザーが、1 歳下の弟ローベルトを描いた水彩画である。 後に文筆家として大成するローベルトであるが、この頃は演劇に夢中であり、故郷ビールで上演されたフリードリヒ・フォン・シラーの戯曲 『群盗』 を観て感激し、主人公の盗賊団の頭相カール・モーアにみずから扮したと言われている。 少年ローベルトがあどけなさを見せつけつつ、銃と短刀で闘いに挑む勇猛な盗賊を演じる様子が生き生きと描かれ、画家カールの早熟の才がうかがえる。 画面右下には 「自然に倣って」(独語:Nach Natur) と記されている。 |
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'2026 4_17 「日本初の回顧展「カール・ヴァルザー 世紀末の昏き残照」 報道内覧会展示風景・ギャラリートーク、プレスリリース、図録の抜粋文でご紹介しています。 |
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【 Chapter 3. 挿絵と装幀 Illustrations and book design 】 |
日本旅行の翌々年、1910 年にカール・ヴァルザーはヘートヴィヒ・ツァルネツキ(1885-1987) と結婚します。 1914 年、新しく結成されたベルリン自由分離派のメンバーになり、1917 年スイスに一時帰国、ヴィンタートゥールの美術品収集家でパトロンであるオスカー・ラインハルトと親交を深めました。 1921 から 1925 年まではベルリンに滞在しています。 1902 年に本の装填、1904 年には挿絵の仕事を始め、弟ローベルトの小説や詩のほかにセルバンテスの 『ドン・キホーテ』 やハインリヒ・フォン・クライストの戯曲、ゲオルク・ビューヒナーの喜劇 『レオンスとレーナ』 などの古典も手がけました。 フランスのルイ王朝時代の騎士道ロマンス 『シュヴァリエ・フォーブラのアバンチュール』 のロココ風の挿絵は少女漫画的とでも言えそうな趣きがあります。 同時代の詩人クリスティアン・モルゲンシュテルンの 『絞首台の歌』 の表紙の絵は、詩の内容に応答しながらもヴァルザー独自のアイロニーを反映し評判になりました。 さらには 『ブッデンブローク家の人々』 などトーマス・マンの長編小説の本のデザインでも、ヴァルザーは文学と絵画を巧妙に橋渡しする独自の才能を発揮します。 第一次世界大戦後、1920 年にチューリッヒで出版されたローベルト・ヴァルザーの散文集 『湖水地方』(奥付記載の刊行年は 1919 年) は、ローベルトの希望に反してカールの挿絵が使われたため、兄弟の関係が 1920 年代に悪化する一因となり、1925 年刊の 『薔薇』 のためにカールが表紙絵を描いたのが、兄弟の最後の共同作業になりました。 |
左・No.3-1 ロベルト・ヴァルザー著/カール・ヴァルザー挿絵・表紙 『フリッツ・コハーの作文集』 インゼル出版社、ライプツィヒ、1904 年 ローベルト・ヴァルザー財団、ベルン / ・No.3-2~3-12 ローベルト・ヴァルザー著
『フリッツ・コハーの作文集』 挿絵のための原画 1904 年 スイス国立図書館 / ・No.3-49 ローベルト・ヴァルザー著/カール・ヴァルザー挿絵・表紙 『物語集』 クルト・ヴォルフ出版社、ライプツィヒ、1914 年刊 ローベルト・ヴァルザー財団、ベルン /・No.3-14 ローベルト・ヴァルザー著/カール・ヴァルザー表紙 『タンナー兄弟姉妹』 ブルーノ・カッシーラー出版社、ベルリン、1907 年刊 ローベルト・ヴァルザー財団、ベルン /右・No.3-15 ローベルト・ヴァルザー著/カール・ヴァルザー表紙 『助手』 ブルーノ・カッシーラー出版社、ベルリン、1908 年刊 ローベルト・ヴァルザー財団、ベルン |
左・No.3-1 『フリッツ・コハーの作文集』 学校卒業後ほどなく亡くなったとされる少年フリッツ・コハーが、在学中に書いた作文集という体裁をとった散文集。 ヴァルザーの挿絵は細部を省略したシンプルなスタイルで、ジャポニスムやビアズリーなどの影響が指摘されている。 少年の作文という設定に合わせて、あえて簡略化した表現を採用したのかもしれない。/・No.3-49 『物語集』 ライプツィヒの出版社クルト・ヴォルフから刊行された散文集で、カールが挿絵と表紙を担当した。 表紙と扉絵には、ライティングデスクの前で肘をついて考え事をしている、作者ローベルトと思しき人物が描かれる。 表紙はエンボス加工がしてあり、線描のみの表現だが、扉絵にはグレーの陰影がつけられている。 /・No.3-14 『タンナー兄弟姉妹』 ローベルトにとって初めての長編小説となった本作の主人公ジーモンは、職を転々とする人物である。 ローベルト自身が 10 代後半に職を転々としていたことや、兄弟に学者や芸術家がいることなど、作者の自伝的な要素が散りばめられている。 表紙を担当したのが、芸術家の兄カールで、表紙にはバルコニーにいる人物が描かれた。 バルコニーはベルリン時代のカールが絵画において好んで取り上げたモチーフである。/ 左・No.3-15 『助手』 ローベルトにとって第 2 作目の小説となった 『助手』 は、あるブルジョア一家の没落を描いている。 ローベルトは 1903 年から翌年にかけて、チューリッヒの発明家ドゥプラーの帳簿係兼秘書として雇われていたことがあり、この小説はその時の体験をもとにして書かれた。 物語は主人公のヨーゼフが湖畔の丘の上に建つ館を訪れるところから始まる。 カールの表紙絵は、まさにその場面を忠実に再現している。 小説はヨーゼフがこの館を去るところで幕を閉じる。 |
【 ロベルト・ヴァルザー】 |
カール・ヴァルザーのひとつ下の弟、ロベルトは作家で、詩、散文、小説などの分野で多くの作品を残した。 同時代のフランツ・カフカやヘルマン・ヘッセ、ヴァルター・ベンヤミンなどに注目され、新聞や雑誌に次々と作品を発表し生前に出版した著作も 16 冊にのぼる。 しかし評価とは裏腹に本の売れ行きは芳しくなく、創作活動と並行して、生活のため事務員や従僕として働かなければならなかった。 ローベルトが 1904 年に初めて刊行した 『フリッツ・コハーの作文集』 には、兄カールが挿絵を描いた。 これを皮切りに 11 冊の本で兄弟は協働しており、 カールが表紙や装填を手がけ、その内の 5 冊には挿絵も描いている。 2 人とも没後は徐々に忘れられていくが、ローベルトは 1970 年代以降に再評価が進み、研究センターやその名を冠した文学賞が創設されるなど、スイス文学史の中に確固たる位置を占める存在となった。 一方、カールの再評価は、この展覧会も含め今さらに進行中である。 |
左・No.3-16/No.・3-22/・No.3-24 ローベルト・ヴァルザー著/カール・ヴァルザー挿絵 『詩集』 ブルーノ・カッシーラー出版社、ベルリン、1909 年刊 ローベルト・ヴァルザー財団、ベルン / ・No.3-22 ロベルト・ヴァルザー著 『詩集』 挿絵のためのエッチング(重苦しい光) 1908 年 ローベルト・ヴァルザー財団、ベルン / ・No.3-24 ロベルト・ヴァルザー著 『詩集』 挿絵のためのエッチング(雪) 1908 年 ローベルト・ヴァルザー財団、ベルン / ・No.3-39/3-40/3-44 ジャン=バティスト・ルーヴェ・ド・クーヴレ著 『シュヴァリエ・フォーブラのアバンチュール』 挿絵のための版画 1910 年頃 スイス国立図書館(・No.3-39 「何と!もう就寝ですと!彼は私にキスをしたがっていたのに」 /・No.3-40 「何と!もう就寝ですと!彼は私にキスをしたがっていたのに(ヴァリアント)」 /・3-44 「彼女は寝椅子に身を預けた(ヴァリアント)」 /右・3-29/3-31/3-34 ゲオルク・ビューヒナー著 『レオンスとレーナ』 挿絵のためのリトグラフ 1910 年 スイス国立図書館(・No.3-29 「第1幕、第1場、レオンス王子」/・No.3-31 「第1幕、第4場、ペーター王と部屋つき従者」/・No.3-34 「第1幕、第6場、レーナ王女と女家庭教師」) |
左・No.3-16 『詩集』 ローベルト初期の詩を集めた書籍で、ほかの多くの彼の著作と同じくベルリンの出版社であるブルーノ・カッシーラー出版社から刊行された。 200 部限定の豪華版で、手漉き紙を用いている。 エッチングによる細密な線や点で描かれたカールの挿絵は、構図も 1 点ずつ変化に富んでおり、ドラマの一場面かと思わせるような臨場感がある。 出版当時の批評でも、挿絵の質の高さが賞賛されている。/・No.3-39/No.3-40/3-44 『シュヴァリエ・フォーブラのアバンチュール』 フランス革命期に文学、演劇、ジャーナリズムの分野で活躍したジャン=バティスト・ルーヴェ・ド・クーヴレが書いた恋愛小説。 1787 年から 1790 年にかけて 3 部に分けて刊行された。 若い貴族フォープラの静的な冒険(アバンチュール) が描かれる。 ヴァルザーはドライポイントの手法で制作したが、その繊細な筆致は、最晩年のビアズリーを思わせる。 楕円形の枠内に挿絵が描かれ、下に場面のセリフが描き込まれた版と、文字なし長方形の画面に同じ場面を違う角度から描いたヴァリアント(異版) がある。/ 右・No.3-29/・No.3-31/・No.3-34 『レオンスとレーナ』 23 歳の若さで没したビューヒナーの戯曲は没後に高く評価され、19 世紀後半から 20 世紀にかけての文学・演劇に大きな影響を与えた。 ポポー王国の王子レオンスが政略結婚を嫌い、従者ヴァレーリオととにイタリアに向かう。 その途上で知り合ったピピー王国の王女レーナと恋に落ち、国に戻ると、政略結婚の相手がじつはレーナだったという喜劇である。 この本は書籍デザインの傑作とされ、「胸を打つほど美しく、決して揺るがない魅力を湛えた宝物」 と評された。 |
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カール・ヴァルザー KARL WALSER 略年譜 (1877-1943) |
1877 年(0歳)| 4 月 8 日、カール・エドゥムント・ヴァルザー、スイスのベルン近郊の街ビール(ビエンヌ) に生まれる。 |
ヴァルザーは生涯を通じて、挿絵や舞台美術、室内装飾や壁画の仕事で生計を立てていました。 ドイツとスイスにはいくつもの壁画が現存していますし、舞台美術の分野ではシェイクスピアはじめ多くの作品でセットやコスチュームのデザインを担当しました。 コスチュームのデザイン画は、まるでファッション画のような華やかさをまとっています。 また、装填や挿絵でも、ひとつ下の弟で詩人として名を馳せたローベルトの本をはじめ、少なくない仕事を超しました。 多くはエッチングによるものですが、その巧みな線描表現も本展の見どころのひとつです。 |
お問合せ:03-3212-2485 |
参考資料:日本初の回顧展「カール・ヴァルザー 世紀末の昏き残照」 プレス説明会、図録、Press Release.、チラシ他。 |
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